1. ディラック方程式の構築
ディラック方程式は、特殊相対性理論と量子力学を統合した相対論的量子力学の基礎方程式です。この方程式は、1928年にポール・ディラックによって構築されました。ここでは、その構築過程を段階的に見ていきましょう。
2. 特殊相対性理論のエネルギー
2.1 エネルギー-運動量関係
特殊相対性理論では、粒子のエネルギーと運動量の間に以下の関係があります:
$$E^2 = (pc)^2 + (mc^2)^2$$
ここで、\(E\)はエネルギー、\(p\)は運動量、\(m\)は質量、\(c\)は光速です。この式は、ニュートン力学の \(E = \frac{p^2}{2m}\) を相対論的に拡張したものです。
2.2 量子力学での表現
量子力学では、エネルギーと運動量は演算子で表されます:
- エネルギー演算子: \(\hat{E} = i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\)
- 運動量演算子: \(\hat{p}_i = -i\hbar\frac{\partial}{\partial x_i}\)
これらの演算子を相対論的エネルギー-運動量関係に代入すると:
$$\left(i\hbar\frac{\partial}{\partial t}\right)^2 = \left(-i\hbar c\frac{\partial}{\partial x_i}\right)^2 + (mc^2)^2$$
3. シュレーディンガー方程式との関係
3.1 非相対論的極限
運動量が小さい場合(\(pc \ll mc^2\))、相対論的エネルギー-運動量関係は:
$$E \approx mc^2 + \frac{p^2}{2m}$$
これは、静止エネルギー \(mc^2\) と運動エネルギー \(\frac{p^2}{2m}\) の和です。量子力学では:
$$i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t} = \left(mc^2 – \frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2\right)\psi$$
これがシュレーディンガー方程式の相対論的拡張です。
3.2 問題点の発生
しかし、このアプローチには深刻な問題があります:
- 負のエネルギー状態: \(E = \pm\sqrt{(pc)^2 + (mc^2)^2}\) の解が現れる
- 確率の保存: 確率密度が正に保たれない
- ローレンツ共変性: 時間と空間が対称的に扱われない
- 微分の階数: 時間微分が一階なのに空間微分が二階という非対称性
特に重要なのは、時間微分 \(\frac{\partial}{\partial t}\) が一階であるのに対し、空間微分 \(\nabla^2\) が二階であることです。これは相対性理論の時間と空間の対称性に反します。
4. 演算子の導入
4.1 パウリ行列の発見
ディラックは、これらの問題を解決するために、4×4の行列(パウリ行列)を導入しました。これらの行列はクリフォード代数の表現として理解できます:
4つのパウリ行列は以下のように表されます:
$$\alpha_x = \begin{pmatrix} 0 & \sigma_x \\ \sigma_x & 0 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 & 0 & 0 & 1 \\ 0 & 0 & 1 & 0 \\ 0 & 1 & 0 & 0 \\ 1 & 0 & 0 & 0 \end{pmatrix}$$
$$\alpha_y = \begin{pmatrix} 0 & \sigma_y \\ \sigma_y & 0 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 & 0 & 0 & -i \\ 0 & 0 & i & 0 \\ 0 & -i & 0 & 0 \\ i & 0 & 0 & 0 \end{pmatrix}$$
$$\alpha_z = \begin{pmatrix} 0 & \sigma_z \\ \sigma_z & 0 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 & 0 & 1 & 0 \\ 0 & 0 & 0 & -1 \\ 1 & 0 & 0 & 0 \\ 0 & -1 & 0 & 0 \end{pmatrix}$$
$$\beta = \begin{pmatrix} I & 0 \\ 0 & -I \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 1 & 0 & 0 & 0 \\ 0 & 1 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & -1 & 0 \\ 0 & 0 & 0 & -1 \end{pmatrix}$$
ここで、\(\sigma_x, \sigma_y, \sigma_z\) は2×2のパウリ行列、\(I\) は2×2の単位行列です。クリフォード代数は、幾何学的代数とも呼ばれ、物理現象の深い数学的構造を記述します。
4.2 演算子の性質
これらの行列は以下の重要な性質を持ちます:
- \(\alpha_i^2 = \beta^2 = I\)(4×4単位行列)
- \(\alpha_i\alpha_j + \alpha_j\alpha_i = 0\)(\(i \neq j\))
- \(\alpha_i\beta + \beta\alpha_i = 0\)
5. ディラック方程式の導出
5.1 線形化の試み
ディラックは、エネルギー-運動量関係を線形化しようとしました:
$$E = c\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p} + \beta mc^2$$
この式の両辺を2乗すると:
$$E^2 = (c\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p} + \beta mc^2)^2$$
5.2 条件の満足
パウリ行列の性質により:
$$(c\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p} + \beta mc^2)^2 = c^2(\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p})^2 + (mc^2)^2$$
さらに、\(\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p} = \alpha_x p_x + \alpha_y p_y + \alpha_z p_z\) なので:
$$(\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p})^2 = \sum_{i,j} \alpha_i\alpha_j p_i p_j = \sum_i \alpha_i^2 p_i^2 = p^2$$
したがって:
$$E^2 = (pc)^2 + (mc^2)^2$$
これは元の相対論的エネルギー-運動量関係と一致します!
6. ディラック方程式の完成
6.1 量子力学での表現
エネルギーと運動量を演算子で置き換えると:
$$i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t} = \left(c\boldsymbol{\alpha}\cdot\boldsymbol{p} + \beta mc^2\right)\psi$$
これがディラック方程式の基本形です。\(\psi\) は4成分のスピノル(ディラック・スピノル)です。
6.2 ガンマ行列による表現
より一般的な表現として、ガンマ行列 \(\gamma^\mu\) を使用できます。これらもクリフォード代数の表現です:
$$\gamma^0 = \beta, \quad \gamma^i = \beta\alpha_i$$
これにより、時間と空間が対称的に扱われる共変形式が得られます:
$$(i\hbar\gamma^\mu\partial_\mu – mc)\psi = 0$$
この形式では、時間微分 \(\partial_0 = \frac{\partial}{\partial t}\) も空間微分 \(\partial_i = \frac{\partial}{\partial x_i}\) も一階であり、相対性理論の対称性が保たれています。
共変形式について詳しく7. ディラック方程式の意義
7.1 スピンの自然な現れ
ディラック方程式から、粒子のスピンが自然に現れます。これは、4×4の行列構造に起因します。
7.2 反粒子の予言
負のエネルギー状態の解釈により、反粒子(陽電子など)の存在が予言されました。
ディラック方程式について詳しく8. まとめ
ディラック方程式の構築過程:
- 特殊相対性理論のエネルギー-運動量関係から出発
- シュレーディンガー方程式の拡張を試みる
- 負のエネルギー問題に直面
- パウリ行列による線形化を発見
- 4成分スピノルによる相対論的量子力学を構築
- スピンと反粒子の概念が自然に現れる
ディラック方程式は、数学的美しさと物理的深遠さを兼ね備えた、20世紀物理学の傑作です。