1. ベクトルと観測者 動機

ベクトルは矢印。空間に存在する実体です。 ところが、紙に書くときは (Vx,Vy)(V_x, V_y) のように 成分(数値の組)で書くことが多い。

ここで重要なのは、矢印そのものは観測者によらないけど、 成分は観測者ごとに違うこと。 観測者 A が「右向き 1m」と書く矢印は、首を 90° 傾けた観測者 B からは 「下向き 1m」と見えます。同じ矢印なのに、書き下した数値は違う。

観測者 A の成分 (Vx,Vy)(V_x, V_y) から、 観測者 B の成分 (Vx,Vy)(V'_x, V'_y) へどう翻訳するか ── その翻訳ルールを行列で書ける、というのがこの記事の主題です。

2. 座標系 = 基底ベクトルの選び方 定義

観測者が「座標系」を選ぶというのは、具体的には 基底ベクトル(ex,ey\vec e_x, \vec e_y)を決めることに対応します。 x 軸・y 軸の向きを決める単位ベクトルが基底です。

ベクトル V\vec V はこの基底で展開できます:

V=Vxex+Vyey\vec V = V_x\,\vec e_x + V_y\,\vec e_y

係数 Vx,VyV_x, V_y が「成分」。 基底を取り換えれば、同じ V\vec V を再現するための係数も変わる。 これが「観測者で成分が変わる」ことの中身です。

観測者 A の基底 ex,ey\vec e_x, \vec e_y を、 観測者 B の基底 ex,ey\vec e\,'_x, \vec e\,'_y に取り換える。 このとき成分がどう翻訳されるか ── 観測者の関係(回転?反転?動いている?)によって、行列の中身が決まります。以下、典型例 3 つ。

3. 例 1:回転

観測者 B が、A から角度 θ\theta 回転している場合(B の x 軸が A の x 軸から +θ の方向)、 B の基底は

ex=cosθex+sinθey\vec e\,'_x = \cos\theta\,\vec e_x + \sin\theta\,\vec e_yey=sinθex+cosθey\vec e\,'_y = -\sin\theta\,\vec e_x + \cos\theta\,\vec e_y

となります。同じ V\vec V を A の基底と B の基底の両方で展開して係数を比較すると、 成分の変換則が次の行列で書けます:

R(θ)=(cosθsinθsinθcosθ)R(\theta) = \begin{pmatrix} \cos\theta & -\sin\theta \\ \sin\theta & \cos\theta \end{pmatrix}

注意: B の基底が +θ 回転しているとき、ベクトル成分は逆方向に回るので、 実際に成分を変換する行列は R(θ)=R(θ)R(-\theta) = R(\theta)^{\top}:

(VxVy)=R(θ)(VxVy){Vx=Vxcosθ+VysinθVy=Vxsinθ+Vycosθ\begin{pmatrix} V'_x \\ V'_y \end{pmatrix} = R(-\theta)\,\begin{pmatrix} V_x \\ V_y \end{pmatrix} \quad\Longleftrightarrow\quad \begin{cases} V'_x = \phantom{-}V_x\cos\theta + V_y\sin\theta \\ V'_y = -V_x\sin\theta + V_y\cos\theta \end{cases}

直感:首を右に 30° 傾ければ、世界は左に 30° 傾いて見える。 観測者の回転と成分の回転が逆向きなのはこのため。

演習 #1

観測者 A から見て V=(1,0)V = (1, 0) のベクトルがある。これを+90°回転した観測者 B(B の x 軸が A の y 軸の向き)から見ると、成分はどうなる?

行列で計算してみよう。R(90°)R(-90°) を使えばよい(B が +90° 回転だから、成分は逆向きの -90° で変換)。

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R(90°)=(cos90°sin90°sin90°cos90°)=(0110)R(-90°) = \begin{pmatrix} \cos 90° & \sin 90° \\ -\sin 90° & \cos 90° \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix}

これを V=(1,0)V = (1, 0) にかけると:

(VxVy)=(0110)(10)=(01).\begin{pmatrix} V'_x \\ V'_y \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ -1 & 0 \end{pmatrix}\begin{pmatrix} 1 \\ 0 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 \\ -1 \end{pmatrix}.

つまり A から見て「右向きの矢印」は、B(顔を 90° 左に傾けた観測者)から見ると「下向きの矢印」に見える。

直感:B の x 軸は元の y 軸。元の x 軸方向のベクトルは、B の世界では「下」(-y' 方向)に映る。

4. 例 2:反転(鏡映)

観測者 C が、A の世界を鏡を通して見ているとします。 x 軸方向だけ反転、y 軸はそのまま。 このとき、基底は ex=ex\vec e\,'_x = -\vec e_xey=ey\vec e\,'_y = \vec e_y になり、 成分の変換は次の行列で書けます:

Mx=(1001),My=(1001)M_x = \begin{pmatrix} -1 & 0 \\ 0 & 1 \end{pmatrix}, \quad M_y = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & -1 \end{pmatrix}

MxM_x は x 軸方向の鏡映、MyM_y は y 軸方向の鏡映。 ともに対角行列で、対角成分が 1-1 の方向だけ符号反転。

物理での出番:パリティ変換 P:(x,y,z)(x,y,z)P : (x, y, z) \to (-x, -y, -z) は 全方向の鏡映で、これに対する物理量の振る舞いから「パリティ保存則」「カイラリティ」などが議論されます。

演習 #2

観測者 A から見て V=(3,2)V = (3, 2) のベクトルがある。これを x 軸を反転させた観測者 C(鏡を通して見るような観測者)から見ると、成分はどうなる?

Mx=(1001)M_x = \begin{pmatrix} -1 & 0 \\ 0 & 1 \end{pmatrix} を使う。

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行列をかけるだけ:

(VxVy)=(1001)(32)=(32).\begin{pmatrix} V'_x \\ V'_y \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} -1 & 0 \\ 0 & 1 \end{pmatrix}\begin{pmatrix} 3 \\ 2 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} -3 \\ 2 \end{pmatrix}.

つまり、A で (3,2)(3, 2) のベクトルは、x 軸鏡映観測者 C から見ると (3,2)(-3, 2)。x 成分だけが符号反転、y 成分はそのまま。

直感:鏡を覗くと「左右」が反転する。鏡の中の自分が手を上げると、鏡面に対して左右だけ入れ替わる(上下はそのまま)。

5. 例 3:ローレンツ変換

観測者の取り換えは「向き(回転 / 反転)」だけではありません。 動いている観測者(等速度で直進している人)から見たときの 時間と空間の混ざり方は、特殊相対論のローレンツ変換として知られています。

速度 vv で x 方向に動いている観測者 D から見ると、 時刻 tt と位置 xx は次の行列で混ぜ合わされます (光速 c=1c=1 の単位で β=v/c\beta = v/cγ=1/1β2\gamma = 1/\sqrt{1-\beta^2}):

Λ(v)=(γγβγβγ),β=vc,γ=11β2\Lambda(v) = \begin{pmatrix} \gamma & -\gamma\beta \\ -\gamma\beta & \gamma \end{pmatrix},\quad \beta = \frac{v}{c},\quad \gamma = \frac{1}{\sqrt{1-\beta^2}}
(tx)=Λ(v)(tx)\begin{pmatrix} t' \\ x' \end{pmatrix} = \Lambda(v)\,\begin{pmatrix} t \\ x \end{pmatrix}

重要なのは、これも行列で書ける線形な変換だということ。 「観測者を変える」=「行列を作用させる」という構図は、回転や鏡映とまったく同じ。 違うのは「何を混ぜるか」だけ ── 回転は (x, y) を混ぜ、ローレンツ変換は (t, x) を混ぜます。

詳しくは特殊相対論の入門記事(別途公開予定)で扱います。ここでは「行列で書ける」ことだけ押さえれば OK。

6. 線形な観測者の取り換え = 行列

以上の例から見えてくる原則:

観測者を取り換える操作が線形(=ベクトルの和とスカラー倍を保つ)なら、 必ず行列 MM をかける形で書ける:

V=MV\vec V\,' = M\,\vec V

  • 回転:直交行列 RR(RR=IR^{\top}R = IdetR=+1\det R = +1)
  • 反転(鏡映):直交行列で det=1\det = -1
  • ローレンツ変換:Minkowski 計量 η\eta を保つ行列(ΛηΛ=η\Lambda^{\top}\eta\Lambda = \eta)
  • (ガリレイ変換も行列で書ける、相対論より前の古典的な動いている観測者の取り換え)

物理量がベクトル・テンソルでできているのは、こうした観測者の取り換えに対して 整然と変換されるためです。 この「整然と変換される性質」が 共変性